昭和49年01月11日 朝の御理解



 御理解 第3節
 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」

 上下立つようにいたす。神様も助かって下さり、人間氏子も助かる。そう言う様なおかげの道を、生神金光大神に託しておられる。生神金光大神を差し向けて、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせという風に仰っておられる。しかも「末々まで繁盛いたすこと」と仰っておられる。いうならお徳を受けるお話を頂いて、そのお徳があの世にも持っていけ、この世にも残しておけると仰る。末々まで繁盛致す事。同時に助かると言う事が、神も氏子も共々に助かって行くと言う事。
 そう言う様な神の理想実現と言うですか、神様の願いが実現して行く道を、理解申して聞かせ。理解付けて下さる。道理を教えて下さると言う訳なんです。だからそういうおかげの頂けれる信心になるために、私共の考え違い思い違いを改めていかなければならないと言う事で御座います。その考え違いの最も大きいものは、どう言う事かと言うとここにあります。「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず」天地の御恩恵に浴しておる。
 天地のお恵みなしには、立ち行かないと言う事を、先ずは知らせようとなさっておられる。天地の働きの中にある、その御恩恵がなかったら、人間は幸せにはなれないし、又生きて行く事も出来ない。これは生死を通して、天地の御恩恵を浴しなければならないと言う事を、まず知らなければならない。それを具体的に「神仏の宮寺、氏子の家屋敷みな神の地所」と、はっきり教えられておる。そこを一つの悟りの境地と申しますか。人間は裸で生まれてきたんだと。
 何一物とて自分のものというものはないのだと。着物を着せて貰う雨梅雨しのがせてもらう家に住まわせて貰う。是は自分の私有財産だと言う様に思うておるけれども、実際は、それは神のものだとこう言う。それを本当におかげを頂いておる人の体験から言うとです。成程自分の物とては、一物とてもないという自覚が出来た所から、一粒のお米でも一掬いのお水であっても、神様のおかげを頂かなければ、頂かなければという自覚に立つ。自分のものは、何一物とてもないという自覚に立って。
 信心させて頂く者の上に、無尽蔵のおかげというものが約束される。その体験からです成程我のものというものは、一物とても無いという自覚というものが、まず出来なければならない事。自分のものでもないものを、自分のものと思うておる思い違い、考え違いが、まずは正さなければならないと教えておられる。同時にまたこれは特に、日本人の上に下さっておるのですけれども、方角日柄ばかり見てと言う様な事です。是も大変な考え違いである間違いである。
 ただ間違っておるというだけではなくて、それが無礼になると仰っておられる。いやそれが前々のめぐり合わせで、その為に難を作っておるとまで、ここでは極言しておられるわけです。これは私共先祖の人達が、何時の頃からは知らんけれどもです。人間が勝手に日が良いの悪いのと、方角が良いの悪いのと言った様な事を、そういう迷信を持ち出して、勿論人間が幸せになろうとして、そう言う様な事を、編み出したわけでしょうけれども。そう言う様な事はないのだと。
 それは私共の見当違いだと教えておられる。そういう考え方は間違い。この御理解三節には只今申しました様な内容の事を、教えておられるのでございますけれどもです。しかも神様が氏子と共に助かろうとなさっておられる。そういうものもこの御理解三節から感じられられます。久留米の初代が頂いておられる、信心生活と言う事についてお話を聞かれた。大変難しい理論立ったお話であるから、先生には少し難しくて意味が分からなかった。そこで信心生活とは、どういう生活でありましょうかと言う事を。
 神様にお伺いされた時に、生まれたばかりの赤ん坊が、布団の上に休んでおる。それに水引をかけてあるところを御心眼に頂かれて、是が真の信心生活だなぁと言う事を思われたと言う。いわゆるそこの自覚です。我無一物の中にあるんだ。自分のものとしては一つもない。みんな神様のおかげのものばかりだ、御恩恵のものばかりだ。それを考え違い、自分の物のような思い方をしておる所にです。本当の信心生活が出来んのだと。本当の信心生活というのがです、最後に氏子も上下立つ様に致すという。
 しかも末々までも繁盛いたす事と言う様なおかげに繋がる事だと。信心生活というのはそういうおかげが頂けれる信心生活でなからなきゃならないと言う事です。いかにも自分の財産のようにあったり、自分の物と思うておる。その自分の物と思うておる事が、第一の見当違いである、間違った頂き方だというわけです。だから、自分の中にと言う事は、我のある生活で、信心生活と言う事は言えないと言う事になる。
 所謂我のない生活。その生活が私共考え違い思い違いと言う様な所から、それが大きなご無礼お粗末の元になって、前々のめぐりで難を受けおる。そこで金光様のご信心を頂かせてもろうてです。何と申しますか。本当に知らなかった、知らなかったそう言う事であったかと言う様にです。しかも自分の代で分かった事。所謂先祖代々が、それを真の事のように思うて、我の生活をしてきた事に対するお礼、お詫びをさせて貰うと同時にです、こういう大変な事を教えて頂いた、分からせて頂いた事のお礼喜び。
 そこから歓喜の生活と言うものが生まれて来る。お道の信心のいうならば、お道の信心による信心生活の根本になる所を、御理解三節には説いてあると思います。けれども金光様のご信心を頂いて、繰り返しご理解を頂いておるけれどもです。その自覚というものが出来んでおるとするならば、本当に残念な事と言わなきゃなりません。先ず私共の考え違い、思い違いを正していかなきゃいけません。そこからです、どういう事になるかというと。私は、ここんところが、本当に分かったところからです。「礼を言う、心こもれる言葉なり、日本の言葉お世話になります。」という、本当の意味においての、お世話になりますという事が言えるように思うのです。
 自分の着物と思うておるから、平気で着よる。神様からの、お与えというか、又は借り物というか。そこには、お世話になります、お世話になりましたというような、いや本当の意味においての、お世話になりますが言えれることになるのです。そこに、私共が気付かせて頂いた時にです。神様がお喜び下さると思うです。こりゃ対人間の場合でもそうです。何かを上げておると致しましょう。所が先方の人はそれを忘れておる、貰った事を忘れておる。又は貰った事に気付かなかった。
 それが何日かの後に気付いたとするか。それが解ったとするか。はぁこんなもんば頂いとった。もう本当にお目に掛かってお礼も申し上げもせずに、先日はどうも有り難うございましたと、お礼をいう時にです。それを送った者がです、はぁ分かって頂いたですかという、喜びがあるでしょうが。それを、ずうっと知らんままで行けばです。ものをやっておっても、お礼も言わない。神様はお礼を言うて貰おうではないでしょうけれどもです。それに気付いてくれると言う事が、神様の思いであろうと思うです。
 今までは知らん事とは言いながら、あれも是も自分のものと思うておった事の間違いを正してです。神様からお預かりをしておるのだから、大事にしなければおられん。神様から与えられておるのであるから、お礼を申しあげなければおられんと、分かってくる時です。初めて私はお世話になります、お世話になりましたと言う事が言えれると思うのです。それを神様が喜んで下さらない筈がない。はぁそこが分かってくれたかと。そういう自分のものとしては、一物とてないと言った様な。
 皆神様からのお授かりものであろう。又はお与えである、又は借り物であるという時にです。私はこの世が本当の仮の世だという事が分かった事になると思うです。だからどれほどにお礼を申し上げても、どれ程にお礼を申し上げても足りない思いで、それこそお詫びばかりを致し、お礼の足りないお詫びばかりをしておりますという、金光様のお言葉が、はっきり分かって来る様に思います。
 金光様の信心生活のです、根本になる所で御座います。そこでです成程だと分かっただけでは、心からのお世話になりますも出て来ない所にです、信心修行がある訳です。私は、信心修行をさせてもらうと言う事は、そういう本当の事を、本当の事として分かる。いわゆる、真という又は真理という。真とは本当な事だと仰る。本当な事の根本の所が、この御理解第三節です。
 その本当の事が、分からせて頂く事の為に、私共は信心修行させて貰うと言う事になりましたら、日々が有り難い信心生活と言う事になってくる。同時にですそういう根本的な所が、分からせてもろうて、今般生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせと。例えばおかげを下さり下さり、日々皆さんがお取り次ぎを頂いておかげを受けていかれる。そういうおかげを頂き頂き、御理解を頂かせてもろうて、本当な事が分からせて貰う。
 そこから末々までも繁盛いたす事、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つ様に致すと言う様な、神様の助かりそして私共の助かりという、結構な助かり方。末々までも繁盛致す事と言う事は、是はお徳を受けると言う事です。あの世にももっていき、この世にも残して置けると言う様な、お徳を受けるためにはです。ここの根本の事ろが分かって、そこを一つの立脚点としてです。そこから様々な道理も分からせて貰う。どんなに難しい事が分かっても、ここの根本の所が分からなかったら駄目だ
 。それを説き得ておられるのは、教祖御一人だと私は思います。お釈迦様もここんところだけは、説き得ておられなかった。何百巻何千巻と言う様な、大変な教えの道は説かれたけれどもです。ここのところを説かれなかった。そこに因縁と言った様な事になってきた。ここの所だけは、キリスト様も説き得られなかった。だから今にそれが罪という言葉で残っておる。そういう大変な私は御教えだと思いますこの御理解三節は。金光大神にして説き得られた所。
 いや金光大神にだけ、そこを天地の親神様は明かされたという気も致します。私共の根本的な思い違い、考え違いと言う事を分からせて貰う時にです。本当にこの世は神様の神愛の満ち溢れた、世界である事に気付かせて頂くでしょう。前々の巡り合わせで難を受けおる。そう言う様な先祖代々から難儀の根本、言うなら巡りの根本。巡り巡りという言葉を使いますけれども、この御理解三節だけにしかないです、巡りという言葉をお使いになってる所は。前々の巡りで難を受けおると言う事。先祖代々からです、どんなに善行を積んでも、どのように素晴らしい徳を積んだと致しましてもです。
 ここの所のお粗末御無礼というものが、本当の難儀の根本だと言っておられます、教祖は。だから根本的な助かり。折角そういう素晴らしい教祖を頂き、御教えを頂いておりましましてもです、それが本当にそうだと分からせてもらう。中々それを実感として分かると言う様な事は難しい事は難しいです。
 これは昨日から幹三郎の話の中から、私は改めて私の若い時分の信心の事を思わせて頂いたんですけれども。本当に着る資格なし食べる資格ない私と。自分というものが分かれば分かるほど、その思いが深うなってくる。お粗末御無礼な私と言う事になってくる。そこからです本当に食べる資格すらない、着る資格すらない。そこから与えられる食べ物であったり、着るものであったり、又その他一切のものであると言うとこからです。今日私が申します様な根本的な所が、本当に頂いたものだなぁ。
 神様が恵んで下さったものだなぁと言う事が分かるんです。それにはどう言う事かというと、結局、リギリ決着、私自身が分かると言う事になるんです。自分が分かると言う事になるんだ。そして昨日のお説教の中にも申しましたように、当り前の事を当り前になして行くという信心修行。信者としてはこんくらいな事は当り前。ここはお互いの信心の、その過程による事ですから一応ではありません。それぞれの信心の程度に応じてこれは、この位な事は当り前として、それを行の上に現していくという生き方。
 私はこの事を、昨日四時の御祈念の時に、金光様の七十年間という長い間、特別な希な事。いうなら希は櫛になるという希ですね。不思議なという意味ですかね、その不思議な生活と言う事じゃないです、金光様の場合もう当り前の事を、当り前として一教の教師として、当然のことを、しかも七十年間続けられたと言う所に素晴らしさがあるんだと。合楽教会長として、この位な事は当り前。
 その当り前の事が私の場合は、たいまんになっておった事に気付かせて貰ってです。それは決して難しいことでも特別なことでも、当り前の事として、それがなされて行くことに気付かせて頂いたことを、お礼申させてもらいよったら、鈴掛という花がありますよね。白い花がこう咲くのがありましょう。あれは山伏が袈裟に掛けておる、あれを何か鈴掛というんでしょう。こうボタン白いものが付いている。宗教的なだから言葉でもあるわけでしょうね、きっと。
 それはどう言う事かというと、あの鈴掛という花は、次から次とずうっとおかげが間断しない。切れないという事。当り前の事を当り前として、続けて行く信心の中からです。いわゆる無尽蔵というか、その無尽蔵のものに、ずっと繋がって行くことが出来るというほどしの事なのです。ですからね私共が、今日頂きました御理解の、根本的な一番大事な、しかもどういう大宗教家と言われておった方達でも、ここは説き得ていなかったというほどしの素晴らしい事。
 そういう事を分かったにしても、実感として分からせて頂くために、先ずは自分が分からせて頂く事。まずはお道の信者としては、これは当り前の事を当り前として表現して行く。それを行の上に現して行くという生き方。それは決して火の行とか水の行とかというような難しい事じゃないと言う事。当り前の事。真の道を行く人の当り前の事を、当り前にして行くという中からです。私はその無尽蔵のおかげに繋がって行く。
 そこから神様のおかげの、これは私が何時も毎日思いもする、又言うてもおる事ですけれども。信心して、おかげお受けるのは不思議とは言うまじきもの。信心しておかげのない時には、これぞ不思議なる事と仰るがです。私自身毎日毎日が不思議で不思議でたまらん生活の中にあるという事です。それは毎日毎日間断なしに、切れ間のないおかげの中に浸っておるからなんです。頼んだからおかげ頂いたと言った様なもんじゃないのです。それには今日の金光教の御教えでもです。
 大の字をつけて表現してよいだけの御教えだと思います。ですからそういう御教えを、踏ん前ての日常生活がです、当り前の事が当り前になされて行くという信心修行。愈々自分自身というものが分からせて頂いて、不平の不足の言えれる段じゃない私。とてもとても私のような、昨日の幹三郎の言葉を借りるなら、自分の様な者をです、神様がお生かし下さっておる。この世にどうして自分のような者が生まれて来たじゃろうか。こういうご迷惑ばかりかける、神様に対して相済まんと言う所からです。
 食べる資格がないほどしの自分を発見しつつある訳です。ですからそこに与えられる食べ物が、押し頂かなければおられない事になってくるのです。自分というものが、愈々分かってくると、そういうお粗末御無礼な自分という事に気付きます。そういう私ですら、神様が生かさにゃおかんという働きがあってです、あぁいう九死に一生と言った様な、いや、もう医者は九分九厘助からないと言われるほどしの病気をしながらも、神様が助けて下さったと言う事に、感泣しておるわけです。
 そういう助かりの中にある自分が、このような自分である事に、自己嫌悪とまで思われるように、自分というものをギリギリ見極めて行こうとしておるわけです。そして私が、二十数年前に、そういう考え方の上に立った私の信心であったと思うんですけれども。着る資格のない私、食べる資格のない私というところからです。私は段々今日の合楽の信心があると思う。まずは、自分自身が本当に分かる事。そしてこのくらいな事は、当り前な事をですね、ただ二日三日じゃない。
 その事をです本当に続けて行くと言う所に、鈴掛け的なおかげにも又、繋がると言う事になるのです。ですから毎日毎日が不思議で不思議でたまらん、有り難い生活の中に、おかげを蒙らせて頂けれるような、その根本になる御教えがこの御理解第三節だと思います。どうぞ銘々の信心の程度程度に応じてです、当り前の事を当り前に行ずると言う事は、実を言うたら、本当に難しい事なんです。
 と言うて、実際は難しい事じゃないのだけれども、難しいです。私もそれが出来ていなかったと思うです。その出来ない事、その事が怠慢なんです。当然の事を当然にしないんですから怠慢でしょう。一つこの寒修行の間に、その辺の所を、銘々の所で一つ、はっきり、銘々なりのもので結構ですから、分からせてもろうて、愈々より本当な所へ到達させて頂く精進をさせて頂きたいと思いますですね。
   どうぞ。